カトリック清水教会 Catholic Church of SHIMIZU

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カトリック清水教会
〒424-0931
静岡県静岡市清水区岡町1-34
Tel:054-352-7188
Fax:054-352-7189

カトリック清水教会のあゆみ(1)
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入江の殉教者

天正15年(1587)7月、秀吉によって発布された天正禁令(キリシタン禁制と宣教師追放)に始まるキリシタン迫害の火は、徳川時代になると駿府を発端に国中に燃え上がり、明治6年(1873)に300年間続いた解禁例が出るまでは日本のキリスト者は長い受難の道をかなければなりませんでした。徳川初期には清水江尻にも6人の殉教者の名が残っています。

清水教会のあゆみ

清水教会の歴史は、ドラエ神父の歴史と重なっています。ドラエ神父の足跡をたどりながら、現在の教会のあゆみを思い起こしたいと思います。

ドラエ神父のこと

清水教会を興したドラエ神父はフランス北部の港町・ブローニュの出身です。
活動していた前橋を後にして静岡に来たのは、病床にあった静岡教会のクレマン神父を支援するためでした。大正13年(1924)6月頃のことです。
同年9月末にクレマン神父が帰天、その後継者として同年10月1日にドラエ神父が静岡教会主任司祭の任につきました。(写真・青年ドラエ神父)

教会ができるまで

清水で最初の信者となったのは、秋葉神社の近所に住んでいた杉山栄一さんとその家族6人です。 大正11年(1922)4月16日(ご復活の大祝日)に静岡教会でドラエ神父から洗礼を受けました。 大正末期から昭和に入るとドラエ神父の家庭訪問とともに徐々に信者の数も増えていきました。その頃にはまだ清水に聖堂がなく、御ミサには静岡教会まで通っていました。

ドラエ神父は昭和6年(1931)には故国フランスへ帰国しましたが、帰国前にたびたび古物、骨董の店を訪れ浮世絵や刀剣の鍔、古美術品を買い求め、それらの品をフランスで売って、教会建設の資金作りに努力しました。また、故郷のブローニュとその近郊の信者に協力支援を訴えるなど資金調達に駆け回り、休養の里帰りを清水教会建設のために費やされました。

昭和7年(1932)秋、日本へ戻る荷物の中には大きな聖マリア、聖ヨゼフの対の御像がありました。現在、聖堂の脇祭壇の上に安置されているのが、ドラエ神父がフランスから持ち帰った像です。

ドラエ神父が日本へ帰ってきた時には、すでに静岡にはピリング神父が着任していましたので、ドラエ神父の清水地区への巡回、宣教はこの時期から画期的な活動期に入ります。巡回ミサは入江岡の教会が発足するまで続けられたのでした。

清水教会ができた

昭和8年(1933)7月上旬、入江町に最初の清水教会が発足しました。現在の静鉄入江岡駅の近くで入江教会のあった附近にはお地蔵さんを納めたお堂がたっています。

昭和7年(1932)には大曲から波止場を結ぶ幹線道路が完成しました。ドラエ神父が巡回ミサのため清水まで通っていた時代のことです。東海道線・静鉄線をまたぐ桜橋が架設されたのもこの頃です。

昭和8年(1933)5月頃、巴川製紙の荒磯氏から譲渡された大きな2階家を、教会に適した間取りに改造し、7月上旬には最初の清水教会が発足しました。8月15日、シャンボン司教来Cのもと、聖母被昇天の荘厳なミサが捧げられ、11月12日付カトリック新聞にはその様子を記した記事が掲載されています。

清水教会の誕生は幼児受洗者を次々と生み出しました。ドラエ神父は静岡実科高等女学校の校長でしたから、早朝ミサ後は静岡まで電車で通い、夜は信者の家庭訪問と、共同体の父親として多忙な日常を送っていました。貧しい人には恵みを、病人にはいたわりもって接しましたが、ミサを怠けるものには厳しい態度を示しました。

ドラエ神父は盆栽の花作りが好きで、とりわけサツキのシーズン中は丹精したサツキの花が祭壇を飾りました。

教会に住み込んで神父のお世話をしたのは、ヨハネ村越銑三・ユリアナ百合子夫妻です。夫妻は昭和8年(1933)に結婚式を挙げ当初はブラジルへ渡る予定をしていましたが、教会の発足と同時にドラエ神父に請われ、教会内に住むことになったのでした。

受洗したばかりの百合子は20歳で、ドラエ神父の気質をよく理解していませんでしたから、ドラエ神父に叱られては泣きべそをかき、そのたびに神父は赤ん坊をあやすように「泣くじゃあない、泣くじゃあない」と慰めの言葉をかけてくる。泣かせてはなだめ、泣かせてはなだめるので、しまいにはおかしくて笑い出した、という逸話が残っています。神父の人柄を垣間見せるエピソードです。
この教会は入江教会と呼ばれて親しまれ、本格的な清水教会建設の基盤となりました。

ドラエ神父が本格的な聖堂を建てたいと考えていた清水御殿地は、徳川初期の歴史にもその名を残す由緒ある土地柄です。

当時、御殿地付近は岡清水、本町から美濃輪にかけては浜清水と呼ばれていました。

岡清水と浜清水の間には川(江川)があり、下清水八幡神社の下には船着き場の会所がありました。水路は会所から北に向きを変え、上町の八雲神社(通称天王山)の北側から巴川に合流していました。

岡清水の高台からの眺望は、東北の方向に富士山を望み、眼下には巴川の流れを見ることができました。浜清水と向島(現在の市役所付近から松原町、入船町、港町に至る区域)、三保と、三重の景観を呈していました。それは、巴川が流れているというよりも、海中に細長い半島が突き出たようにも映り、あたかも水郷の観であったと思われます。

慶長13年(1608)家康は江戸幕府の政権を秀忠に譲り、駿府に隠居することになりますが、駿府城には家康の十子頼宣が城主となっていました。

頼宣は家康のために別荘として御殿の造営を企画し、慶長14年に下清水と三保貝島に御殿が建てられました。清水浜御殿、貝島御殿です。貝島御殿には富士見櫓が併設され、軍事的性格も持たせていました。

元和二年(1616)に家康が死去するまで、これらの御殿がどの程度使用されたか明確ではありませんが、四季折々の景観は見事なものであったでしょう。

元和四年、頼宣が紀伊に封ぜられました(紀州徳川家の始まり)。頼宣の紀伊転封によって、使用する主が居なくなった御殿には金比羅神社が鎮座するようになりました(元禄十年・1696)。

嘉永七年(1854)8月、播磨守戸川安清によって御殿の建てられた石碑は、昭和40年(1965)までルルドの左端に残されていましたが、現在は八幡神社の境内に移されています。石碑の文字は能書家の儒家として知られる柳田貞亮の筆によるもので、一見に値する名筆です。

昭和6年(1931)、ドラエ神父はフランスへ帰国する前から、一面の茶畑であったこの地に聖堂建設の願いを込めて”幼きイエズスの聖テレジア”のメダイを埋めておいた、との記述が残っています。

余談にはなりますが、徳川中期の清水の田舎町にも、キリシタン禁令の高札が立っており次のような文面が記されています。(本町;石野家所蔵古文書)

正徳元年(1711・徳川家継の時代)に変体仮名で書かれた和綴じの古文書には、「きりしたん宗門は累年御制禁たり 自然不審成者有之ば、申出べし 御褒美として
ばてれんの訴人     銀五百枚
いるまんの訴人     銀三百枚
立かへり者の訴人    同断
同宿並宗門訴人     銀百枚
右之通過被下たとひ同宿宗門之内たりといふ共申出る品々より銀五百枚下さるべし隠置他所より顕るるにおゐては其所之名主五人組迄一類共罪におこなはるべき者也」 と、ありました。
*「ばてれん」はポルトガル語のPADRE(宣教師)。「いるまん」はIRMAO(修道士)。銀百枚は米価を基準にすると約三百万円に相当します。

昭和10年(1935)当時、御殿地は下清水御殿地と呼ばれドラエ神父が希望した敷地は567番地の1から3の広さ、およそ800坪でした。所有者の江川政太郎氏は容易には売買交渉のテーブルには着かず、価格においても開きがありました。売買契約の成立は時の市会議員であった鈴木与平氏の仲介に負うものでした。
ところが、残念なことに、聖堂建設に関する資料、地鎮祭、測量、基礎工事の開始年月日、設計図面、施工業者の住所・氏名、工事期間、総工費等、正確な記録文書が残されていないのです。これらの資料が見つかることを期待したいと思います。

一面の茶畑に高い足場が組まれ、聖堂の骨組みが天に向かって伸びていきました。静岡実科高等女学校校長と清水小教区の司教職を兼任するドラエ神父は、朝夕に建築現場に顔を出してはあれこれと注文を付け、満足できる聖堂完成のため、祈りと情熱を注ぎ込んだのでした。

昭和10年(1935)の暮、ゴシック様式の聖堂と総二階洋式の司祭館が完成、同年12月9日、シャンボン大司教司式の下に盛大な献堂式が挙行されました。昭和11年(1936)3月1日付のカトリック新聞は、「かつて、家康公の御殿跡地に完成した純ゴシック式の聖堂は、ドラエ神父の血と汗の結晶であり、賜である」と賞賛しています。
ドラエ神父は、ブローニュの聖母をこの新聖堂の守護者と決めましたが、その聖母像は遙かブローニュの信者の方々からお祝いとして贈られたのでした。左右に天使が跪き、舟の中央に御子イエズスを抱いて立っておられるブローニュの聖母像は、今も中央祭壇の上壁に安置されています。こうして毎年8月、聖母被昇天の大祝日は清水教会の祝日として引き継がれてきました。

太陽に輝く銅板葺きの聖堂尖塔、ステンドグラスの窓、聳える鐘楼は清水では初めてのエキゾチックな建物として遠方からも見物に来る人が多く、地元では御殿地に異国の御殿が建ったと噂し合ったということです。

ドラエ神父は、司祭館のまわりにアンズ、ビワ、イチジクなど果物の木をたくさん植え、実が熟すと子どもたちに分け与えました。広い空き地は大半を野菜畑にして、日々の糧を生産することにも意欲的でした。

  竣工から5年近くも、新聖堂の鐘楼には鐘がありませんでした。
時代は戦争への軌道をたどり始めていました。
世界の情勢も変わり、外国宣教会の活動も制約を受け妨害行為さえ目立つようになった頃のことです。
宣教ができなくなった教会が鹿児島にありました。鹿児島のカナダ系宣教師たちの教会が閉鎖されてしまったのです。

ドラエ神父は山本陸軍大将の仲介を経て、その教会の鐘を清水教会のために入手することができたのです。こうして、新聖堂の鐘楼から鐘の音が響くことになりました。

布教に没頭するためには、校長職と小教区司教職の兼任は、元来病弱の神父にとっては過大な負担でした。昭和10年(1935)12月、村越金三氏を静岡実科の校長に迎え入れ、ドラエ神父は宣教師本来の任務に専念することになりました。

時代の流れは、教会の指向する人類の平和とは全く逆の方向に進み、排外思想が強まり、多難な時代に入っていきます。

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【このコーナーの出典】
「カトリック清水教会のあゆみ」の本文と掲載写真の一部は、昭和60年(1985)11月10日発行のカトリック清水教会50年史「50年の歩み」 に基づいて作成しました。(著作権保有:無断転載禁止)
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